うろうろ雑感ノート

文章創作に挑戦する一個人のブログです。 日々の生活の中で気になること、思うこと、 そして自他の作品に関する考察を中心に、日記形式で書いてゆきます。

Street of Crocodiles


 「ようつべ」にブラザーズ・クエィのストップモーションアニメ作品
『Street of Crocodiles 』が上がっていた。

 けっこうな昔、これを観に六本木のシネ・ヴィヴァンに行ったっけ。
不気味な物悲しさただよう映像の記憶――は今はすでに断片と
化してはいるが、その細部はなおも鮮やかさを保持している。


 かつて池袋西武のアートコーナーに、この作品のビデオが陳列
されていた。欲しかったけどなかなかに高価で、手が出せないうちに
なくなってしまった。

 こうした作は、見つけた時に多少の無理をしてでも「確保」して
おくべきだと思い知った次第。

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生々流転


 先日、東京・乃木坂や国立新美術館にて開催中の「横山大観展」に
行って参りました。

 傑作と名高い絵巻「生々流転」を観るためです。

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マチスのデッサン


 あれは私が高校生だった頃のこと。ある時学校の図書館で美術関連の本を
読んでいたら、マチス(アンリ=マチス:仏の画家)のデッサン画が2点紹介
されているページに差しかかった。

 そのデッサン画はどちらもトルソー(人間の胴体部分のみの石膏像)を描いた
もので、1点はマチス20代の頃の作。そしてもう1点は最晩年である50代の作
だった。どちらも出来栄えはまことに「凄い」のひとことであり、今に至るもなお
強烈な印象が薄れずに私の中にある。

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能・「朝長」の思い出


 観世流能楽師の観世榮夫さんがこの8日、亡くなられた。

 私は以前関東に住んでいた頃、時々能の公演を観に行っていた。
観世流の某会に入ってチケットを得ていた関係で、榮夫さんの
舞台も何度かは拝見する機会を持っている。

 中でも最も思い出深いのは、水道橋の能楽堂で観た「朝長」
(ともなが)だ。

 能の演目「朝長」は、平治の乱で平氏に敗れた源義朝の子
・朝長を取り上げた修羅能(合戦によって修羅道に堕ちた
兵士を描く能)である。

 源氏の若き公達であった朝長だが、敗戦後に落ちのびる途次
落ち武者狩りに遭い、足に矢傷を負ったことから己の運命を
悟って自害した。

 シテ(能の主役)は前半では朝長の墓を守る中年女性に
扮して墓のいわれを語り、後半では16歳の公達のままの朝長の
亡霊となって現れ、自らの戦いと自害のありさまを演じてみせる。

 榮夫氏の朝長は、誇り高き源氏の若武者が馬上で足に矢を
受けた瞬間の「表情」がまことに印象的だった。

 驚愕・悲嘆・未練・絶望・諦念――動かぬはずの能面の上に
さまざまな情念がゆらゆらとよぎり、誰も如何ともし難い運命の
重さが簡素な舞台からひたひたと押し寄せてくる。

 能楽とは、極端なまでに動きも表情の変化も押さえた特殊な
舞台演劇だが、それだけにほんの一瞬、演者の身体に結実した
人間の「情」の本性が、たとえようもなく大きく観る者を
揺るがせるのだ。

 榮夫氏はそうした能楽の本質をよく表わしてくれる、優れた
能楽師であったと評価が高い方だった。

 そのご逝去を悼み、心よりのご冥福をお祈り申し上げる。


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一枚の葉っぱ


 ある人の手紙を読んでいて、思い出した
「一件」がある。

 以前のこと、

 当時学生だった私は、週末になると都内の
美術館に出かけることが多かった。

 その日も、某日本画専門の館で絵を観ていた。

 通常展示の期間でもあり、出ているのは
日本画らしく季節を意識した小品が多い。

 私のそばで鑑賞していた裕福そうな二人のご夫人、
そのうちの片方の人が、ある絵の前でふともらした
言葉があった。

 「わたし、こんな張り詰めた感じの絵は好きじゃないわ」

 それは、小倉遊亀(おぐらゆき)画伯による
“壷と花”を題材にした絵。
 4、50cm四方のさして大きくない作品だ。

 小倉画伯は明治生まれの女流日本画家。卓越した
写実力、豊かな色彩感覚、立体感に満ちた造形力を
特徴とする、近代日本画界の代表作家である。

 女性が表現活動をする上で非常に各種制約の多かった
時代、画伯は教職や家事の合い間を縫って画業の研鑽
に励み、長い時間をかけて自らの作風をつくり上げた。

 小品から大作まで、全ての絵に一片の妥協とてなく、
線も色も画面全体がピリピリと引き締まり、それでいて
なお静かに、あでやかに対象が息づくように感じられる。

 私などはそんな「張り詰めた」感覚をこそ賞賛し
尊敬する者であったため、かの婦人の言にはいたく
驚かされた。

 自分とは全く違うベクトルで絵を見ている人がいる
――事実を、目の当たりにしたと思った。



 「作品」の鑑賞スタイルは、元来が“自由”だ。
何を見て何を感じるかは、人それぞれである。

 ただ……

 画家が「描く」執念を画布ににじませるのが
「好きじゃない」と云うのであれば、いったい
“彼女”が好むのはどのような「絵」なのだろうか?

 案外、上記のような人はリトグラフや木版などの
「複製名画」に対したほうが、“安心して”鑑賞
できるのかも知れない。



 それはまあ、ともかく。

 小倉画伯が安田靫彦画伯に師事した際、安田氏が
小倉氏に“励まし”として送ったという言葉がある。

 「一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙の全てが
 手に入る。しかしそれは、大変なことだよ」


 “描写を尽くす”ことが“何に至るのか”を、この
言葉は過不足なく指し示している。

 私もまた、肝に銘じている言葉である。

(下の絵は小倉画伯による「ほたるぶくろ」(複製))


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